塾屋のブログ

名古屋市のとある個別指導塾、の雇われ教室長のブログ。教室の様子、指導内容、勉強法、業界についてなどの雑感を綴っていきます。

【ネタバレ有り】EVANGELION:3.0H.0【おじさんにも卒業式を①】

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ということで、おじさん3名で、昨日の日曜に見てきました。

 

なんと、奇しくも「 新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に」を一緒に劇場で見たメンツです笑

1997年ですね。

・・・あれから、24年。なんやかやでエヴァの呪縛に囚われていた世代です。

 

劇中では「14年」という言葉が何度も出てきます。これは破~Qの期間ですね。

いやいや、庵野監督。24年、待ってましたよ笑

 

私らの世代は劇中のシンジ君と同世代にエヴァの訳分からんメタファーに翻弄されて、意味不明ながらも、散りばめられた謎と強烈な心理描写に囚われてしまった世代です。

 

アニメの最終話2話に戸惑い、完結編を期待した1997年の劇場でさらなる戸惑いと強烈なトラウマを植え付けられ、ここまで待ってしまいました笑

 

劇中ではニア・サードインパクト、略してニアサーという言葉が出てきますが、それは1995年のテレビシリーズエヴァ誕生から30年近く、という暗喩だと思います。

この「ニアサー」(テレビ版~Qまでの物語&約30年間)は「ニア」故に不完全なインパクトでしたが、劇中での「アディショナル・インパクト」(今作のシン・エヴァンゲリオン)によって、しっかりとエヴァ3.0インパクトは完成した、そんな風に思えました。

 

だからこそ、言いたい。

庵野監督、ありがとう。

しっかり卒業することができました。

EVAを終わらせてくれたことに感謝を。

 

 

劇中を前半部と後半部に分けるなら、前半部は第三村で、「働く。そして、生きる」という「当たり前」をチルドレンが経験する部分です。

ここが秀逸でした。

 

今を、生きる。当たり前に寄り添い、協力し、日々の生活を営んでいく。

トウジ、ヒカリ、ケンスケといったかっての同級生達は、世の中の大きな変化に巻き込まれながらも、生きていくため、しっかりと成長した姿を見せてくれます。

 

まずはトウジ→シンジ。

見ようみまねながらも、自分にできることを精一杯やる。そして、現実と理想の擦り合わせ。生きることと、そして自身や周りが生きることを諦めないが故に発生する罪とその落とし前。

トウジがしっかりシンジに諭してくれます。

 

次はヒカリ→レイ

「おはよう」「おやすみ」「ありがとう」「さよなら」といった、他者と交わって生きていくための”おまじない”。

まるで”NHKの子どものうた”のような内容を、「私はここでしか生きられないもの」「私は死んでもかわりはいるもの」という一番のぶっとびポンコツ困ったちゃんキャラの綾波<仮称>笑に、ヒカリがやさ~しく、教えてくれます。・・・流石委員長!!

 

最後はケンスケ→アスカ

親に愛されない故に親からの愛情に囚われてしまい、反動で「一人で生きていくこと=能力の証明義務」に固執してしまったアスカ。

「アスカはアスカでいい」。このケンスケの台詞(第三村でなく終盤の回想描写)で、親以外の他者からの承認を得られたアスカは、自己の価値のアンカーを得て、能力=価値証明の呪縛から解かれていきます。

 

 

そんなこんなで、かってのチルドレン達が、成長が止まったチルドレン達に、背中を見せながら、優しく諭していきます。

どこまでもループし、前を向けば更なる困難で打ちのめされるという物語が、ここにきて、なんとまぁ素直に成長の物語を描きだします。

 

いってしまえば普通の物語ですが、なぜこれができなかったのか。そしてなぜここまでの重みをもつのか。

それは、観客=チルドレン、という枠組みの中で物語が制作されていたからだと思います。

1997年にこれを見せられても、今ほどの重み付けと素直さを持って受け入れられてはいなかったと思います。

 

実際に、トウジ・ヒカリ・ケンスケの3人に深く共感し、シンジ・レイ・アスカに対して「困った子たちだね~」という生温かく見守る視点になっていました。

ここで、勝手シンジ・レイ・アスカ側を軸に展開していたが故に、この物語に触れる時はなんとなく成長が止まってしまっているような気がしていた自分が、大人になっていることを実感します。

 

そうですね、エヴァと同一化した当時の自分とおっさんになった今の自分の分離作業が完了する訳です。

これがエヴァの呪縛が解ける瞬間ですね。

 

この記事ではここら辺までにしておきましょう。

次も書くかもしれないので①としておきます。

 

最後に。

なぜ、”大人役”は、ゲンドウ・冬月・ミサト・リツコ・リョウジ達でなかったのか。

それは、彼らが”大人の他者”だったから。

彼らはある種の根深い、そしてドロドロした闇を抱えたメンヘラです。

チルドレン達を道具にして、いいように洗脳して、ぐちゃぐちゃにしていきます。

それは、一つの真実で現実だと思います。

 

一方、ぐちゃぐちゃになった子ども達を成長に導いたのは、”かっての自分達が成長した姿”であるトウジ・ヒカリ・ケンスケです。

 

庵野”自分で成長せいや。ちゃんできてっか?”

 

俺”大丈夫。それなりに揉まれながらも、なんとかやってますよ” 

 

そんなことを映画を観ながらやり取りした気分になりました。

 

まぁ、劇中でメンヘラ大人を量産して混乱の渦に叩き落した庵野さんに言われたくはないんですけどね笑